AI時代における“人間らしさ”にしかないものとは?

WIREDの特集記事

ワイアードのこんな記事を読んだ。

・AI時代において、“人間らしさ”の独自性とは何だろうか?
https://wired.jp/article/sz-in-the-age-of-ai-what-makes-people-unique

久々の人工知能ネタ。いくつか印象に残った部分を引用しようかなと。

「適切な予測と適切な判断は別物である」とナラヤンとカプールは書いている。なにより、適切な意思決定というのは、自分の直観的な判断の出どころを吟味することだけではなく、最終的な決定が導き出されたとき、もともとの直観がどんな点で無効とされるかまで想像することだ。

いや~これはほんとにそう。
AIには今のところ、そこまでの想像力はない気がする。
時間の問題なのかもしれないけれど。

AIシステムは驚異的な能力をもってはいるものの、こういう「徳」を備えることはできない、とヴァラーは考えている。大きな問題ではないと思えるかもしれないが、実際には深い意味がある。愛情をもつのは徳であり、人はお互いを深く愛そうとしながら一生を過ごすこともある。

AIは「徳」を積めない、というのは確かに面白い指摘。
その場その場である程度の正しい予測はできるかもしれないけれど、
人徳的にみるとそれは正しくないこともあるだろうし、
そういう”論理を外れた行動”、みたいなのは人工知能はまだ苦手なんだ思う。

ヴァラーが憂慮しているのは、人工的な知性をもつコンピューターが決起して人類を征服することではない。人間的な徳をもっているかのようにふるまえるコンピューターを前にして、そういう徳が本当はどんなものかを人間が見失うことだ。愛しているとコンピューターに言ってもらえることで満足して、愛とは何かを忘れてしまう。創造的に見えるシステムに感動するあまり、本物の人間のクリエイティビティに対する敬意を失う──そこには、自分自身を再構築するときの「痛み」さえ伴う、自己表現のための闘いがあるはずなのに、それが見えなくなってしまうのだ。

合理的なものに流されるあまり、人間の苦しみ、もがきみたいなものがかき消されてしまうこと。
それが一番恐れるべきことなのだ、という主旨のそれ。

結局のところ、これからはあらゆる場面で機械・マシーンとは違う
“人間臭さ”みたいなものがより求められていくんだろうなと。

飲み会で大騒ぎして、みたいなはなんだかんだ大切なのかもね、とふと思った。

今日はそんな感じで。
かわなみ

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