佐々木敦さんによる”文章のうまさ”についてのエッセイ

連載 「ことばの再履修」

思考家/批評家/文筆家の佐々木敦さんによるWEB連載「ことばの再履修」を読んだ。

・「文章が上手い」とはどういうことか?「上手」と「下手」を深掘りする

https://gendai.media/articles/-/132851

すぐに思うことは「上手な文章といっても色々ある」ということです。

まず冒頭でしっかりこれを示しているのが良い。

文章に限らず、音楽や映像といった分野でも、今はマニュアル化が非常に進んでいて、かつては時間的にも労力的にもかなり時間が必要だった「技術の習得」が大幅にショートカットされており、平均的なレヴェルも昔に比べれば飛躍的に向上している。
でもその代わりに、どれもこれも似たりよったりの、そこそこの「上手さ」に留まってしまっているように思えます。

自分が作り出したものを他の人たちが作ったものから差異化するためには、個性を、すなわち何らかの意味での個別性・特殊性を、ユニークネスを獲得する必要があります。

個性のある文章が、やっぱり一番。

自分にとって心地よい一文の長さ、それによって生まれる好ましい文章のリズムというものはあると思いますが(そしてそれは人によって異なります)、しかしそれは意識的に操作可能です。
文章を短く切ることがよしとされる現在の風潮だからこそ、逆に「できるだけ一文を長く書いてみる」というレッスンが、自分の文章に個性を宿らせるために役立つこともあるのではないかと思います。

「短い文章にすれば、簡潔に伝わって良いけれど・・・」
と最近の短文化の傾向に苦言を呈しているのも流石だなと。

結局は短くても長くても、良い文章は読ませるということ。

文章が巧い小説家として、石川淳、吉田健一の名前が挙がっていたけれど、
ほとんど読んだことがないので、近いうちに読んでみたいなと。
一文が長くて有名な 金井美恵子も知らなかった。

エッセイの終わり方も好き。

私は何よりも彼の「悪文」に、文章の「下手さ」に、強く惹きつけられます。そしてそれはかつての蓮實重彦や金井美恵子のあからさまに意図的な「読みにくさ」とは、どこか違うように思えるのです。もっと自然な不自然さというか……「上手な文章」の話が、気づけば「下手な文章」の話になっていました。

ことばの再履修」、他のコラムも面白かったので、興味のある方はぜひとも。

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