名作と呼ばれる本に悪文が多い理由

名著と読みにくい文章の関係

読書に関するこんな記事を読んだ。

「悪文」に名著が多い理由|ちくま学芸文庫|石黒 圭|webちくま – https://www.webchikuma.jp/articles/-/3675

個人的に「悪文」と聞いて一番初めに思い出すのは、
大江健三郎の『万永元年のフットボール』の文章。

どう考えても読みにくいし、文章として破綻しているところも多い。

ただ、それが物語にしっかり絡みついているのが魅力的で、
やっぱり何度読んでも大江健三郎は濃くてすごい。

名文は定義が難しい。どのような文章が名文かは、読み手の主観によって異なると考えられる。一方、悪文は定義が易しい。どのような文章が悪文かは、簡単に決めることができる。読んでいて不正確な文章、わかりにくい文章が悪文だからである。

文章を書くコツは、じつは名文を書くことではない。悪文を書かないことである。悪文さえ書かなければ、書かれた文章は社会で通用する。名文として評価されるかどうかまではわからないが、少なくとも実用には供するのである。名文は芸術であり、悪文は技術である。私たちが学校で、また社会で学ぶべきは、芸術的な文章の書き方ではなく、正確でわかりやすい文章を書く技術である。

「悪文を語る本に外れなし」。
このことは文章読本を考えるうえでの鉄則だと評者は考える。

面白い考え方だなぁと。

今日はそんな感じで。
かわなみ

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