ジョージ・オーウェルの「スポーツ精神」のエッセイを読んだ。

パリ五輪の真っ最中ということで、1945年12月に「Tribune」へ投稿されてたジョージ・オーウェルのスポーツに関する文章を読んでみた。
George Orwellといえば あの『1984年』や『動物農園』で有名なイギリスの作家。

意外とエッセイも書いてて、それもなかなかキレがあっていいのよね。

ということで、今回の本題へ。

スポーツ精神, ジョージ・オーウェル | Open Shelf
https://open-shelf.appspot.com/TheSportingSpirit/chapter1.html

印象に残った部分をいくつか引用。

現在おこなわれているスポーツのほとんど全ては競争的なものだ。勝利を得るためにおこなわれ、もし勝利のために最大限の努力をしないのであれば試合はほとんど意味のないものになる。どちらのチームにつくか選べて郷土愛の感情に巻き込まれることのない、村の草原でおこなわれるようなものであれば純粋な楽しみと運動のためにプレーすることも可能だろう。しかしそれが威信をかけたものになり、もし負ければ自分とより大きな構成単位の面目が失われると感じるやいなやもっとも野蛮な闘争本能が呼び覚まされるのだ。

国際的なものともなれば率直に言ってスポーツは戦争の模倣になる。しかし重要なのは選手たちの振る舞いではなく、むしろ観客の態度、そして観客の背後にいる国家の態度だ。彼らはこの馬鹿げた競争に怒りを爆発させ……短期間とは言え……走ったり、跳ねたり、ボールを蹴ったりすることが国家の徳を試すものだと真剣に信じる。

この瞬間に世界に存在する膨大な量の敵意の積み立てをもしさらに増やしたいと思えばフットボールの試合に勝るものはないだろう。

大規模におこなわれるスポーツそれ自体は私が考えるところではナショナリズムを生み出す原因が引き起こすもうひとつの結果に過ぎない。だが他のライバルチームと戦わせるために国内王者の称号を与えた十一人の男からなるチームを送り出し、それがどちらであろうが敗れた国はあらゆる点で「面目を失う」と感じることを許せば事態はよりいっそうひどくなる。

怒りに駆られた観客の叫び声の中で若い男たちに向こうずねで互いを蹴り合わせてそれをさらに増やす必要など無いのだ。

スポーツ観戦のリスク

今回のパリオリンピックの柔道の判定をめぐるいざこざ、
国家間の争いなどを見ていると、
確かに良い側面だけではなく、
新たな闘争を生み出すリスクにもなるんだなということに改めて気づいた。

五輪のみならず、
野球の巨人VS阪神のファンダムの変な燃え上がり方とか、
格闘技の過剰な煽り合いとかもやっぱり良くないなとは昔から思うし。

ラテンアメリカでは実際にサッカーの試合で暴動がおき、
多数の人が亡くなったりもしている。

この当時からこの視点を持っていたオーウェルはさすが、
というかこの当時だからそう思わざるを得なかったのか。

いずれにせよ主張がはっきり通っていて良い文章だった。

ちなみに『オーウェル評論集2: 一杯のおいしい紅茶』に収録されてます。
『象を撃つ』などのその他名エッセイとあわせてどうぞ。

今日はそんな感じで。
かわなみ

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