「メタ教養」永田希さんの連載が興味深い。

家政学と村上春樹

集英社新書プラスの連載「メタ教養 / 永田希」がこれまた面白そうな企画なので、軽く紹介。

教養とは何かを捉えなおす

永田希さんは『積読こそが完全な読書術である』『書物と貨幣の五千年史』、『再読だけが創造的な読書術である』などが有名な作家・書評家の方。

 

第1回の今回のテーマは「家政学」。
村上春樹の『1Q84』と村田沙耶香の『コンビニ人間』
を比較・考察された
エッセイがなかなか興味深かった。

「教養」の一種として最近もてはやされているリベラルアーツ(自由技芸)にも含まれず、学問の分野としても物理学や経済学などの分野ほどの知名度はなく、現在は軽んじられていると言ってもおそらく言い過ぎにはならない「家政学」。「教養」という、敷居の高そうなテーマをさらに上から眺める、あるいはその背後にあるものをうかがう、もしくは一歩横に離れてみるというときに、本当は身近なはずなのに、なぜか軽んじられている「家政学」の概念を経由してみよう、というのがここでわたしが試みようとしていることです。

 

コンビニ人間での最適化していく様子とと1Q84の料理シーンとの対比。

料理を上手につくることも同じです。仕事に自分を最適化するという方向性では『コンビニ人間』の古倉と『1Q84』の登場人物は似ていますが、『コンビニ人間』の古倉は最適化の快楽に溺れているようにも見えます。

 

村上春樹の作品と、村田沙耶香の作品、それぞれの登場人物をもっとも激しく対照的にしているのは、天吾たちが「世の中の仕組み」をある程度は把握しており、そのなかで歯車のようになる自分をメタに認識しているのに対して、古倉にはそのような意識がなさそうなところです。

 

『1Q84』に限らず、村上春樹作品の特徴になっている料理の描写、とりわけ男性主人公による料理の場面は「男性は家の外で仕事に励み、女性は家を守るべきだ」という旧来の考え方に対するささやかなアンチテーゼとして読めるものだったと考えることができるのです。そして、『コンビニ人間』の古倉が差し出す、およそ料理とは言えない、栄養を摂取するだけの「餌」は、上野千鶴子が焦点化しようとした「家事」の成れの果てだと言えるでしょう。

村上春樹が料理のシーンをやたらとしつこく書くのも、
つまりはそういう意味も込めているんだろうなと。

ファストなんたらがもてはやされる現代こそ、
その描写の意義や意味は増していくのかも。

そもそも”家政学”、という言葉もはじめて聞いたので、
ふーん、と思いながら読んでみたけれど、なかなか面白かった。

宗教二世的なテーマは、
あの事件以降さらに重要度を増したと思うので、
またカルト宗教がひとつのテーマである『1Q84』も読み直してみたいな、と思った夜。

教養があればあるほど、
いろんな視点をもって物事を受け取ることができる、というのを身をもって知れた文章だった。

教養とは何かを捉えなおす

 

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