「アメリカ文学の新古典」という都甲幸治さんのコラムが面白い

ファイトクラブの論考

アメリカ文学の新古典』という都甲幸治さんによる
集英社新書プラスの連載がなかなか良かったので軽く紹介。

第一回目は
自らの内なる力に気づく―チャック・パラニューク『ファイト・クラブ』」というコラム。

『ファイトクラブ』原作者のチャック・パラニュークとのトークイベントの様子と、
その論考を書かれていてます。

そこでパラニュークが目をつけたのが、当時流行っていた女性文学の流れだ。たとえばエイミー・タンの『ジョイ・ラック・クラブ』(角川文庫)では、中国系の女性たちが麻雀卓を囲んで大いに人生を語り合う。それではこうした自分をさらけ出せる場所の男性版を考えてみたらどうだろう。

女流文学の流れから、こんなマッチョな小説を思いつく発想がすごい。

でも本当は、秘められた力をひとりひとりが持ち合わせているのだ。その力の存在に気づくことができれば、今度はルールを作る側に回れるだろう。そうすれば、他の人から見てどんなに失敗の人生だろうが、自分なりの満足感は得られんじゃないか。

「言いたかったことをいってくれた!」と思うのはそういう気持ちを呼び起こしてくれるからなんでしょうかね。

 

だからこそ、自分は形容詞の小説ではなく動詞の小説を書きたいんだ、とパラニュークは言う。形容詞の小説というのは、女性だ男性だ、ゲイだストレートだ、黒人だ白人だ、といったアイデンティティに基づく小説のことだ。けれども、もっと抽象化して考えれば、我々全員が、常に目の前の事態に反応しながら何かを選び、行動している。この行動に焦点を合わせることで、アイデンティティという枠組みを超えた文学作品が書けるんじゃないか。

アイデンティティーという枠組みを超えた文学。
主人公がそれだけに縛られず、自分の殻を破って行動するところがやっぱり魅力的なのかなと。

ファイトクラブに限らず、どの小説も飛びぬけてますもんね。

 

アイデンティティに基づく小説には一定の効果があったと思う。けれども、マイノリティはこんなに苦しんでいる、という話ばかりになってしまえば、ついには読者も飽きてしまう。そして、自分とは属性が違うから関係ない、というニヒリズムにまで到達してしまうだろう。ならば、細かなアイデンティティによって分断されまくった現代社会において、もう一度広く人々に語りかける言葉が必要となってくる。そうでなければ、アイデンティティの枠を超えた共感や連帯はない。だからこそ、パラニュークの言う、動詞による小説、という議論にはその力がある。

最近の揺れ動く社会情勢もあってか、
パラニューク・リバイバルという言葉もあるぐらい、
アメリカではブームが再燃しているそう。

ということで初回は『ファイト・クラブ』についてのエッセイでしたが、
今後も読んでいきたいなと。

最近、文学研究者や翻訳家の方が直接魅力を語る場が増えてきたように思えるけど、
もっと読んでみたいなと思うばかり。

最近読んだ青木耕平さんの『現代アメリカ文学 ポップコーン大盛』という
アメリカ文学の解説書もめちゃ良かったし。

自らの内なる力に気づく―チャック・パラニューク『ファイト・クラブ』

 

「ああ、そういう解釈があったのか」と読み返すたびに新たな発見がある。
良い小説にはやっぱりそういう魅力があるなと改めて思う今日この頃。

『ファイト・クラブ』原作本を読んだ感想 & 映画版との比較

今日はそんな感じで。
かわなみ

今日のよかったこと:
中華料理屋の店長さんが流していたインスト音楽が、なんかやたらと耳に馴染んでよかった。笑

 

2022年に読んでよかった本10選

 

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「メタ教養」永田希さんの連載が興味深い。

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