スマホ時代に純文学を読むということ

読書とタイパ

最近こんな記事を読んだ。

・スマホが手離せぬ常時接続時代に抗して哲学者・谷川嘉浩が提唱する「純文学のすすめ」

https://bunshun.jp/articles/-/68831(前編)
https://bunshun.jp/articles/-/68837(後編)

僕自身は昔から本を読むのが好きで、
タイパが叫ばれるこの時代にも(時代遅れの)読書をしていたりするけれど、
なんか自分の気持ちを代弁するような記事を読んだので軽く紹介。

 常時接続の時代、短期的な楽しみ、すぐに得られる高揚は嫌というほど浴び続けるので、その裏で遠ざけがちな、長期的な楽しみ、しみじみと味わえる感慨のほうを、意識的に取り込むよう努めるべきかもしれませんね。

谷川 そうですね、おそらく人の心の多様性を守るのに、ジワジワした楽しみが必要になってくるという気がします。 人間の感情は本来、複雑で複合的なものです。一つの感情に染め上げられることは基本的になくて、たいていはうれしさと悲しさが入り混じっていたり、楽しい気持ちとストレスフルであることがいちどきに襲ってきたりする。

谷川 そうです。たとえば伝統芸能なんかはいいですよ。すぐに高揚感が全開になったりはしませんが、じっくりと関心を積み上げていって、ようやく最後のほうになって「楽しみ曲線」がぐいと上がる。こちらも腰を据えて付き合うしかなくなります。

 純文学も同じですね。短期的な楽しみはないかもしれない。でも、読み進めるうち、すこしずつジワジワと込み上がってくるものがある。いい作品に出会うことができれば、そういうじんわりくる感慨の証として、何気ないある一節が、読み終えたあともずっと胸に残ったりする。

音楽も映画も読書も、
ゆっくり楽しむ流れが戻ってくるとよいなと。

時間やお金のコストだけを重視するのはそろそろみんな疲れてきている気がするので、
じっくり、その分得るものはたくさん、という方向に揺り戻しがくるのはそろそろだと思う。

今日はそんな感じで。
かわなみ

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