書けない状態でも書くということ

Q by ライブセンス

文章を書くことについて、ライブセンスのこんな記事を読んだ。

「書けない」を書く。QbyLivesense ニシブマリエ
https://q.livesense.co.jp/2024/03/28/2362.html

企業のオウンドメディアあるあるについても書かれていて、
「あーわかる」という内容だった。

一方、Q by Livesense はその王道から離れ、会社生活にあるイシューに焦点を当てた。ときに自社の恥部をさらけ出すことになるが、企業としての迷いや葛藤を共有することに意味があると判断したからだ。

ひと昔前なら、広報は個性を隠すのが当たり前だったけれど、
大企業のアカウントでも癖強めな個人アカウントみたいなところが増えてきている。
ただ、恥部をさらけ出すまでやるところは珍しいので、やっぱりそういう意味でユニークなのかな。

メディア業に関して言えば、この話題はホットか、この切り口は新しいか、炎上回避のためにどういう言葉選びをすべきかなどなど、近視眼的にやってた頃よりも俯瞰して眺められるようになる。だからこそ、書き出す前に「これは本当に書くに値するのか」と自問しすぎてしまう。

自分もある程度そういう部分で、書くのを辞めてしまうトピックもあるので、
気にしないマインドがほしい。

執筆を少しでも前に進めたいなら、駄文を受け入れないといけない。

このブログはそんな大した文章を書いているわけではないので、
けっこう勢いで書いているところがあるけれど、
確かに適当な文章でも「まあいいや」でアップしてるので続いているのかもしれない。

それもあってか「発信はチャンス」ではなく「発信はリスク」の側面が強くなってきた。

自分も実名で書いているだけあって、
迂闊なことは言えないなと思いながら書いていたりはするし、
リスクしかないのによくやってるな、と我ながら思う。

「書けない」を巡って右往左往するなかで、わたしは二つの処方箋にたどり着いた。一つは、とにかく素材を集めること。もう一つは、ライティングをコントロールしようという発想そのものを手放すこと。

自分の場合は「書けない」というよりも「書く時間がない」方が切実な問題。
コントロールしようとしない、というのは確かに、という感じ。

言葉はバトン。他者とつながったり、未来の自分に作用したりする。この言葉に救われた、という経験がある人も少なくないだろう。書くことは孤独な作業だが、孤独の先には共鳴してくれる人が現れたり、絆が生まれたりする。

自分の記録のために書いているようなブログなので、
他人のためになるようなことはあまりかいてないけれど、
たまに「読んでくれている人に届いたかな」という実感がぽつぽつとはあるので、
そういうためにも続けていきたいなと。

今日はそんな感じで。
かわなみ

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